上ノ郷城の歴史

上ノ郷城の歴史

 上ノ郷城は、初代の鵜殿長善から長将・長持・長照の四代にわたった鵜殿氏の居城である。鵜殿氏は、十五世紀中頃に紀伊国熊野川河口の鵜殿地方から当地に移ってきたといわれる。当初は、熊野山領となっていた荘官として派遣されてきたもの。戦国時代に土着土豪として当地での勢力を次第に増大させた。
 戦国期中頃になると今川氏の勢力が三河に拡大させた。とくに鵜殿氏三代長持ちの妻が今川氏親の娘であったことから、鵜殿氏は今川氏とは強力な従属関係にあった。桶狭間の戦い以降、松平元康(家康)は三河地方の平定に乗り出し、東三河のほとんどの武将たちが元康側になびいていく中、上ノ郷城の鵜殿氏はあくまでも今川方を固持していた。
 竹谷松平氏四代目の清善は、元康の指示により、上ノ郷城攻めを幾度も行ったが、上ノ郷城の防御は強固なものであったため、なかなか落とせなかった。しびれを切らした元康は、上ノ郷城の北方にある通称「名取山」に陣を置いて、忍者を使って城中に火を放って、永禄五年(1562)2月、ついに鵜殿氏四代長照を討ち取り、上ノ郷城陥落させたと言われている。
 上ノ郷城の落城後、元康は実母である「於大の方」の再婚相手であった久松長家(俊勝)を上ノ郷城主に置いて、西ノ郡を治めさせた。久松氏が城主となった上ノ郷城は、家康(1563年に元康は家康と改名)の命令により、大須賀五郎左衛門康高等によって改修工事が行われている。天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い、西ノ郡近辺の諸氏は家康に従って関東に移ってしまい、廃城の末路をたどったと考えられている。

教育委員会2012「上ノ郷城跡1」より 抜粋

 


  • 本丸跡から南方(現在の蒲郡市街地)

  • 本丸跡から北方(左側名取山中腹に徳川家康が陣)

 

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